途中で目が覚めることのない深い眠りから意識が戻ると朝。いや、朝になった夢で目が覚めた。しかし外は真っ暗である。4時くらいだろうかと想像しながら時計を見ると時刻は23時30分。たっぷりと眠って起きたつもりなのに日付も変わっていないことに愕然とする。まだこんな時間か…。そのまま頑張って再び眠ろうかとも思ったけれど、乾いた喉を潤すために水を探してゴソゴソしていたら目が覚めてきてしまった。
折角なので持ってきた本を読むことにした。二本目のハイボールをカップに注ぎ、氷と一緒にかき回す。カラカラカラ。いつものフォアローゼスのハイボール。これが美味いんだな。寝起きで喉が渇いていたせいか、ゴクゴクと飲んでしまってあっというまに一本終わり。
オリーブタウンで買ってきたビールとハイボールをすべて飲み干してしまうと、あとは輸血パックみたいなプラティパスに入れてきた赤ワインしか残っていない。そうそう赤ワインと言えば「イカ」が欠かせない。おつまみのスルメイカを口に頬張ってしばらく噛んだ後、赤ワインを流し込むと「牡蠣」の味になる。イカの種類とワインの銘柄に依るが、上手くいくと本物の牡蠣を味わうことが出来る。まあお試しあれ。
「牡蠣」を楽しみながら本を読み始めて小一時間程経った頃、「プシュ!」という音を皮切りに遠くの方から人の話し声が聞こえてくるようになった。ここは海辺のキャンプ場だけれど割と近くに民家がある。多分、夕方に海辺で一人まどろんでいたあの辺りに、近所の青年が缶ビール片手に集まってきたのだろう。それにしたっていまどき大の大人が外で話をするなんて都会ではあまり考えられないことだ。大抵は居酒屋とか何処かの店か、そうじゃなければ誰かの家で話をするのが普通だろう。しかしここは飲食店の無い海辺の町。もちろんコンビニもない。家からビールを持ってきてビーチで談笑するのか。なんかいいな。
話し声はうるさいという感じではないのだが、なんとなく気が散って読書に集中できなくなってきた。酒も回って眠くなってもきていたし、ワインの残りも少なくなっていたので再び寝ることを決意する。つまみのイカを全部まとめに口の中に放り込み、カップに残った一口で飲むには少し大目のワインを無理やり口の中に流し込んで牡蠣終了。シュラフに入ってランタンの灯りを消した。
シュラフに潜り込んで目を閉じてはみたが、いざ寝るぞとなったらやっぱり彼らの話し声が気になって眠れない。さっき寝て起きたばかりだから仕方ないと言えば仕方ないのだが。
彼らの話し声を「うるさい」と決め付けてしまえばそれは騒音にしかならないが、そんなことでイライラするのはつまらない。なにごとにも前向きな私は、実は彼らは友達で自分も一緒に話をしているけれどだんだん眠くなって寝てしまう、というシチュエーションを心の中で再現してみることにした。彼らのかたわらで横になって話を聞く自分。おまえまだ寝るなよな。うん、寝ないよ(嘘)。なんとなく自然に眠りにつけそうではないか。
早速、目を閉じて彼らの話に集中するが話は断片的にしか聞こえてこない。ボソボソとした話し声とアハハハという笑い声が交互に聞こえてくるだけだ。だいたいは何を言っているのかハッキリ分からないし、時折聞こえてくる話は中身のない雑談だ。あれはどうなったとか最近仕事はどうなのかとか、聞こえたところでたいして面白くもない話なので当初の目論み通り次第に眠くなってきた。
彼らの話も始まってから40分以上は経っただろうか。「ペコペコペコ、グシャ!」と、缶を潰す音が聞こえてきた。飲んでいたビールが空になってしまったようだ。そしてしばしの沈黙。どうやらそろそろ話も終わりになるようだ。もうすでにウトウトしていて話し声も気にならなくなってきていたが、それでも静かになってくれるのは嬉しい。これでお開きだなと安堵した時、耳を疑うセリフが聞こえてきた。
「で、なになん?」
…。どうやら今までの話は前置きで、これから本題が始まる様だ。話し長過ぎだろと一人心の中で突っ込んでみてもどうにもならない。「どうしたん?」なかなか話しださない相談者に向かって兄貴肌の方が話を促す。今日の集まりは「ちょっと相談があるんだよね」と言って相談者が兄貴肌を誘った結果なのだろう。
「実はさあ…」ぼそぼそと相談者が話し始めた。多分相談者はちょっと細身で襟付きシャツを着ているはずだ。単なる推測だがそんな声だ。
「まるまる(多分名前。よく聞き取れない)のクルマが平日の夜ないんだよね。携帯に電話してもなかなか繋がらないし」
どうやら恋愛相談の様だ。交際中の女性の素行が気になっていて相談しているという感じだろうか。それにしても田舎では自宅の前にクルマがなければ外出中ってことがバレるのか。
「家の前にクルマがなければ彼女は外出中」心の中でつぶやいてみた。スゴい。凄すぎる。当たり前の事だがこれは自分の常識の範疇を超えた画期的な理論だ。少し感動さえしてしまった。
顔可愛いから心配だとか、そんなの大丈夫だよとか、なになにが忙しいんだろとか、無意味な推測の心配と、根拠なきフォローが延々と繰り返される。しかしすべてが憶測でしかないから当然答えなんて出るわけがない。分かってきたのは兄貴肌の方は短パン姿にビーサンで、防波堤に腰掛けてぶらぶらさせた右足の膝に、左足首を乗っけてビールを飲んでいるのだろうということくらいだ。
眠りに落ちかけていたのにすっかり目は冴えてきてしまった(目はつぶったままだが)。襟付きの彼が心配している彼女のクルマは、多分、白の軽自動車だ。ダッシュボードにピンクのマットなんかを敷いていてビニールのハンドルカバーとかを付けていたら彼女は多分シロだ。恐らく夜な夜な女友達と遊び歩いているだけだ。しかしそうでなければ彼女は怪しい。残念ながら他の男の家にシケこんでいる可能性が大だ。いや、そもそもこの二人はちゃんとつき合っているのだろうか。酔った頭が無意識のうちに根拠もなく勝手に分析を始めている。まあ何処へ行ったにせよ、フェリーの運行がない夜になったら誰もこの島から出ることは叶わない。離島の宿命。数時間で一周できるこの島のどこかに必ず彼女はいるということだ。
この「本題」の話が始まって30分。献身的な兄貴のフォローの甲斐あって、襟付きも落ち着きを取り戻してきた様で次第に会話のペースがゆっくりになってきた。暫くすると「ペコペコペコ」と、手持ち無沙汰に缶を凹ます間の抜けた平和な音が聞こえてきた。どうやら缶ビールの残りがまた少なくなってきた様だ。そして再び訪れる長い沈黙。そろそろ話しも終わりだろうか。しかし、帰ると見せかけてまた次の話が始まるのではなかろうかと、心の中で身構える。
ボソボソとした話し声の後、「それじゃあ、また」襟付きの彼の声が終わりを告げた。おお!これでやっと本当にお開きの様だ。長かった。もう多分2時を回っているはずだ。
「送って行こうか?」と兄貴肌。男同士なのに優しいじゃないか。「家すぐそこだから」そうかすぐそこなのか。「じゃあな、気を付けて」兄貴肌に見送られて、襟付きは歩いて帰っていく。
そしてまた長い沈黙。もうビールも無くなった筈だし、これで兄貴肌も帰るのだろう。まさか兄貴クルマで来たのだろうか。歩いて帰るなら、襟付きと一緒に帰ればよかったじゃないか。それともまだ飲み足りないのか?
「コンッ」と、カラになった缶をコンクリートの上に置く軽い音が聞こえた次の瞬間、
「あいつも大変だよな」
と、初めて聞く声が聞こえてきた。
…..。もう絶句である。黙ってシュラフの中で聞き耳を立てていただけだが心の声が絶句した。ずっと二人で話していると思っていたらなんともう一人聞き役の男がいたのだ。多分彼は防波堤の上に寝転びながら、左手で頭を支えるポーズで二人の話を聞いていたのだ。まさにその役を仮想の自分がテントの中でコッソリと演じながら「おい寝るなよぉ」などと言われながらも眠りに落ちる筈だったのに、本物の聞き役がいたなんて。
気が付くと兄貴の声は少し大きくなっている。それにロレツも回っていない。どうやらかなり飲んだようだ。ボソッと喋る聞き役の彼と酔っ払いの兄貴。会話はあまり弾まない。もう兄貴の方が一方的に「あう!」とか「うが!」とか言っているだけだ。時折「コンッ」と缶を置く音が聞こえ「ペコ」と缶を押す音が聞こえる。
***
気が付くと朝になっていた。6時55分。よかった、本物の朝だ。
テントは木陰に張ったつもりでいたが、フライシートに太陽が丸く写っている。どうやら方角の計算を間違えてしまったようで、直接日光が当っている。このままでは陽が高くなればテント内は温室になってしまうだろう。本当はゆっくり眠るつもりでいたが、今日は早起きをすることにした。
あと5分。7時になったら起きようと決めて目を閉じる。ズル休みの匂いがする朝の二度寝は大好きだ。あと5分と思って寝たら午後になっていた日曜日が何度あっただろう。しかしこの日は7時ちょうどに起きることが出来た。100メートルと離れていない電柱の上に取り付けられたサイレンが突然鳴り始めたのだ。「ウーーーーー!」朝の町に響き渡るサイレン音。「なんなんだよーーー!」驚きながら何が起こったのか考える。「ウーーーーー!」この町は毎朝この音と共に始まるんだな。7時ちょうどじゃなかったら津波でも来るんじゃないかと思う、そんな音だ。
ごそごそとシュラフから抜け出し、マットの上にあぐらをかいて目が覚めてくるのをじっと待つ。うーん、飲み過ぎた。
インナーテントのファスナーを開らき、前室に左手を突いてカラダを支え、右手を伸ばしてフライシートのファスナーを開ける。すこし熱気の籠もりはじめたテントの中に朝の空気が入ってくる。テーブルの上にアルコールストーブを引っ張り出し、コッヘルにミネラルウォーターを注ぐ。ライターで火を点けたストーブにコッヘルを乗せてお湯を沸かす。まずはコーヒーだ。
お湯が沸くまでの間、テントの中を片付ける。シュラフを畳んで袋に詰め、脱ぎ散らかした服を着て、空になったカップとプラティパスをテントの外に放り出し、ランタンとラジオと本を前室に置いたカバンの中に仕舞う。ゴソゴソとテントの中を片付けていたら目も覚めてきた。エアマットのバルブを緩め、エアを抜きながらクルクルと丸めて小さく畳む。おおよそ片付けが完了したところで、前室に敷いたラグマットの上に座り込み、沸いたお湯でコーヒーをドリップする。少しアメリカン気味になるように多めにお湯を注いでコーヒーを作り、余ったお湯に水を足して再びストーブに掛けて次に沸くお湯でラーメン製作に備える。
テントを背にしてコーヒーを飲んでいると、目の前の道路を自転車に乗ったおっちゃんが右から左へゆっくりと通り過ぎる。しばらくすると犬を連れたオバちゃんも左から右へと通り過ぎる。そしてそのたびに軽く会釈をする。自転車で何処かへ行った筈のおっちゃんは、暫くすると戻ってきた。多分、特に用事もなくこの辺をうろうろしているだけだ。片膝を立ててコーヒーを飲みながらおっちゃんに視線を送ると、お湯を沸かしているストーブをみて「朝飯かい?」と聞いてくる。うん、と首だけで返事をすると「そうか」と納得した様子の笑顔を返し、漕ぐともなくペダルを回しゆっくりと蛇行気味に去っていく。
そういえばあのおっちゃん、昨日の夕方話をしたおっちゃんだ。その事にいま気が付いた。昨日もやはりこの辺をうろうろしていたから「キャンプのお金は何処で払うんですか?」と訊いたのだった。管理棟と書かれた建物が閉まっていたからだ。「お金を払いに行くところはないなあ。まだ時期が早いから誰もいないし。その辺でキャンプして、誰かお金を取りに来たら払えばいいんじゃないか?」なんともアバウトな、しかし想像通りの回答が返ってきた。あのおっちゃんは一日の大半をこの海辺をうろうろしながら過ごしているのだろう。
テントの目の前に道路があり いろんな人がそこを通る理由は、実はここがただの公園だからだ。テントの後ろには渡り棒。そしてブランコと滑り台がある。ただの公園でも「キャンプ場」と看板を立ててしまえばそこはもう立派なキャンプ場。そしてこのキャンプ場の管理者はこの町の自治会だ。看板立てておけば夏には観光客がくるんじゃない?そうね、そうしましょ?的な施設だ。
町の小さな公園にバイクでやってきて一人キャンプをする男。普通なら「そんな所でキャンプしちゃダメだよ」となりそうなシチュエーションだが、住民が自ら立てた「キャンプ場」の看板がそんな常識を覆す。こちらからすれば朝飯のラーメンを食っている目の前5メートルをおっちゃんやワンコが行き交う状況に微妙な違和感を感じざるを得ないが、住民側にしてみればそれも見慣れた風景なのだろう。にっこりとまではいかないまでも「ああ、そこでキャンプしてるのね?」的な表情で通り過ぎるおばちゃん。かなり不自然だけど「これでも正規な手続きです」的な不思議なノープロブレム感。キャンプ場という看板が、公園の野宿者の行動を許容している。
11時過ぎのフェリーでゆっくり帰るつもりでいたが、生活道路脇でラーメンを食べているとそれなりに視線を浴びるので、少し早めに撤収することにした。不快な視線ではないが、これはちょっとしたホームレス体験に近い。今から出発すれば9時過ぎのフェリーに乗れそうな感じだったので、結局キャンプ代を支払うこともなくその場を後にする。100メートル程離れた所で、さっきのおっちゃんが誰かと話をしているのを見つけたので軽く手を振ってみる。満足そうに手を挙げるおっちゃん。サヨナラ。
朝の9時に小豆島を出るフェリーはガラガラで、乗船するクルマは5台しかいない。バイクはもちろん自分だけ。この便は完全に赤字だ。経営は大丈夫なのだろうか。全然関係ないけれど少し心配になってしまう。
日が高くなるまえに撤収しなくてはと思わせた朝の太陽はいつのまにか姿を消し、どんよりとした曇り空になっていた。折角こんなところまで来たのに、朝9時のフェリーで帰るのはどうなんだ?と思っていたけれど、「その選択は正解です」と言わんばかりに黒い雲が広がり始める。姫路港に戻るといつ降りだしてもおかしくない低い空。そのまままっすぐに帰路に付き、午後一時過ぎには自宅到着。二日振りの風呂に入ってビールに昼寝。今週も楽しい週末だった。